競争意識の善し悪しについて

私たち人間には、人よりも優越した者でありたいという欲望がある、という前提で話を進めることについて、文句がある人はあまりいないのではないだろうか。

 

それくらいに、人は自分以外の誰かよりも常に優れた者でありたいと考えるものであるように私には思われる。

 

だけど、私はそれがなんとく、どことなく嫌で嫌で仕方がないと感じるところがある。

 

それがどうして嫌なのかは自分でもよくわからないし、その原因を突き止めることはきっと難しいのだろう。

 

それに、競争意識を持つことに対してなんとなく嫌だと私が感じていたところで、そんなことはこの世界にとって本当にどうでもいい些細なことなのは間違いないし、競争意識を持つことが悪いという論理を打ち立てるのはとても困難であるように感じられる。

 

ところで、良いことと悪いことは一体なにを基準に考えればいいのだろう?ということを私は常に考えてしまう。そんなことを考えてしまうからダメなんだ、と思うのだけど、これは単なるフェティッシュの問題で、納得がいかないことには従いたくないという性癖が私にはある。

 

そんなことに無駄なエネルギーを使っていなければ、きっともっといろいろな有益な(有益とはなんであるか?なんていちいち聞くのはよそう。そんなのは聞かなくたってみんなわかっているし、みんななにが有益なのかについては議論するまでもなく同じ結論に達しているのだ。それを議論しようという態度が、この西暦2016年の現在では本当にこれ以上ないくらいの馬鹿馬鹿しい態度なのは言うまでもない)ことに時間と労力を費やすことができたはずなのだ。だけど、有益さよりもフェティッシュを優先してしまう大馬鹿者だからこんなブログを書くことになっているのだ。きっと1年後にはこのブログのことを思い出して枕に顔をうずめて足をバタバタすることになるのだろう。

 

では良いことと悪いことは一体なにによって判別されるのだろう?どんな基準によって良いことと悪いことの判断が可能になるのだろうか?

 

ここで気づくのが、そんな判断基準なんて設定しようにも設定しようがないということだ。あることの善し悪しなんて、判断する人間によって完全に恣意的に決定されるということだけが発見される。

 

例をあげるのであれば、本当になんでもいいのだけど、痩せてるのと体に脂肪がついているのとどちらが良いか?という判断をする場合に、大抵の人は痩せているほうが良いと判断するだろう。痩せているほうが見た目の印象が良いとか、健康に良いとか、そういう理由付けがされるのだろう。けれど、体に脂肪がついているほうが、体が大きくなり、喧嘩などになったときに強いから良いという判断も可能だろう。このように、あることの判断は単に恣意的に決められているにすぎないということがわかる。これはあらゆることに関してそうだ。(ちなみに、体に脂肪がついている男性で、今したような仕方で自分の体格について肯定している人が多いというのはここ最近の私の一つの発見であった。)

 

ところでここで問題となるのが、なんで痩せている人のほうが大抵の場合良いと判断されるのか?ということだろう。あるいは、善悪の判断は恣意的なものであるはずなのに、なぜ、人々の間で善悪についての判断が一致することがほとんどであるように思われるのか?ということが問題になるだろう。

 

これについては、それが「常識」だから、という答え以外に適切なものを私には考え出すことができない。それ以外に、痩せていることが体に脂肪がついていることよりも良いと判断する基準を求めることができないと思う。みんながそう思っているからそうなのだ、それ以外になにか確からしいことをなにも言えないと思う。

 

そして、これはこの社会で良いとされていることのほとんど全てについて言えることであると思う。

 

したがって、競争意識についても同じことが言えるのだと思う。競争意識を持っていること、人より優れていたいと思うということ、これが良いことなのか悪いことなのかは、「常識」(あるいは、格好つけると「コモン・センス」とも言えるだろうか)によって判断されるとしか言えないだろう。

 

ここで、競争意識があるということが、かなりの程度良いことであると判断される場合が多いように思われる、というのが最近の私にとっての発見だった。

 

つまり、結論から言って、競争意識を持つということは良いことである、というのが正しい判断だということになる。

 

なのに私は、謙虚な人のほうがなんとなく好きだしいい感じに見えるなあ、という主観的な理由によって、競争意識を持つ人に対して嫌悪感を持ち、余計な争いについては避けたいなと考える傾向にあった。具体例はあまり出さないけれど。

 

これはまた別の機会にもしかしたら書くかもしれないけれど、社会の「常識」、あるいは「コモン・センス」に一致した判断の仕方をする人のほうが幸せになりやすいというのが私の考えだ。

 

だから、競争意識についていちいち無駄な嫌悪感を抱くのはやめたほうがいいんだろうなあ、ということが言えると思う。

 

最後に、書き終わってみて、このブログの最初の文章は自意識丸出しのくっさいものになってしまったな、という後悔の念を感じている。だけど、自意識丸出しなのもそれはそれでいいのかもしれない。自意識丸出しのほうが人間として可愛らしい気がするし、なんか最近の若い人たちと話しているとそういう感覚があるように見える。だから私も、戦略的に自意識を丸出しにしてみたほうがいいのかな、ということを思っていたりする。

 

 

 

はじめまして

私は、頭の中を整理するのに文章を書くという仕方が一番気に入っていて、最近までそれを誰にも見せないノートに書きなぐっていたのですが、ちょっと気分転換に、自分の文章を人に見られる可能性を考慮に入れなければならないという環境を用意したくなりました。

 

それでブログを始めた次第です。

 

よろしくお願いします。